惑わしと試み

まことの聖徒は惑わしと試みに勝つ。聖書で「負けた者は勝利した者の奴隷となる」と言った(Ⅱペテ2:19 参考)。

初臨の時、イエス様の弟子たちは世の終わりの前兆について聞いた(マタ24:3)。イエス様は「あなたがたは人に惑わされないように気を付けなさい」と答えられた(マタ24:4)。そして、終わりの日の事件の時には人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合うと言われた(マタ24:9~12)。私たちが信じなければならないのは神様の聖書の御言葉なのか、インターネットカフェに載った人の言葉(注釈)なのか?

イエス様と、また上記のイエス様の御言葉を信じるまことの信仰人であるなら、惑わす者になってもいけないし、惑わされる者になってもいけない。終わりの日の事件の時は、全世界に来ようとしている試みの時である(啓3:10)。イエス様はその時に試みに陥って死ぬ所に連れて行く者もいると言われた(マタ24:10)。このような事は親子の間にも起こるようになる(ルカ12:49~53 参考)。聖徒はその時に試みに陥ってもいけないし、試みに陥って人々を死ぬ所に連れて行く者になってもいけない。このような事が起こると聖徒は今がその時である事を分かって、御言葉を守って惑わしと試みに勝たなければならない。

イエス様の初臨の時と再臨の時の信仰の状態

初臨の時の信仰

イザヤ書に記録されている通り、先知者たちと先見者たちは神様によって目を閉じられ盲人となり、また頭を覆われたために聖書はまるで封じられた書物のようになった。そして、彼らは人の戒めで教えたことによって、その民たちの心は神様からは遠く離れてしまった(イザ29:9~13)。そのため、初臨のイエス様は「盲人が盲人を手引きする時、二人とも穴に落ち込む」と言われたのである(マタ15:14)。また、当時イエス様は「バプテスマのヨハネは女から生まれた者の中では一番大きい者であるが、天国では一番小さい者でもバプテスマのヨハネより偉大である」と言われたので(マタ11:11)、バプテスマのヨハネは天国の外に追い出された。当時女から生まれた者(牧者)たちはバプテスマのヨハネよりも小さい者だったのに、どうやって天国に入る資格があるのだろうか?そのために、イエス様は’誰でも水と御霊によって生まれ変われなければ、天国に入ることは出来ない」と言われたのだ(ヨハ3:5~6)。

再臨の時の信仰

各時代の始まりと目的

<各時代の始まりと目的>

唯一なるまことの神様は宇宙空間で天地万物を創造された(創1:1、ロマ1:20)。その目的は創造された被造物から仕えと栄光を受けるためであった。

神様が人(牧者)を選ばれ、各時代を創造された。各時代ごとに誰がどこで働きを始め、その働きの目的は何であるのか調べてみよう。

1.アダムは東方のエデンの園で始められ(創2:8)、その目的は生んで増えて地を征服して治めることであった(創1:28)。

2.ノアは洪水の後、箱舟から出て来てアララテの山で始められ(創8:1~4)、その目的は生んで増えて地に満ちることであった(創9:1)。

3.モーセは出エジプトをし、シナイ山で始められ(出16:1)、その目的はアブラハムの預言を成し遂げる事であり(創15:13~21)カナンの七つの部族を征服して(出3:8 参考)治める事であった。

4.ヨシュアはモーセの後を継ぎ、カナンを征服してシェケム(ヨシ24:25)で始められ、その目的は地に満ちることであった。

5.バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で始められ(マタ3:1~3)、その目的は主イエス様の道を整える事であった。

万国を倒した不品行のぶどう酒(啓17章、18章)

不品行のぶどう酒が何であって万国が倒れたのか。

まことに、全世界が驚くべき大変な事件である。

一時、キリスト教の一部の牧者たちが携挙日を決めるなど、携挙の強い風が吹いた時があった。しかし、それは偽りであった(申18:20~22 参考)。彼らは聖書で約束された「その時」を知らず、また、「携挙」という言葉のまことの意味を悟らず、誤解をして偽りを乱発してしまったのだ。彼らの携挙説が偽りだということが明らかになったのにもかかわらず、彼らはそれを恥ずかしいとも思わず、牧会での仕事も辞めることなく、未だに牧会活動を続けている。それどころか、むしろ他の人に対して「異端」だと言い張っているのだ。彼らが蒔いた種は毒麦である偽りの種であった。偽りの種は悪魔の種であり、この種を受ける者は悪魔の子となる(マタ13:24~30、36~40 参考)。

霊的神様の子

世の中の子は、約100年を生き死ぬと世から離別する。神様の種で生まれた子は永遠に生きることができ離別することはない。どちらがより貴重で重要なのだろうか。上に書かれている事実を信じない者は偽りの信仰人に間違いないだろう。イエス様も神様の種を蒔き(マタ13:24、マコ4:14)、私たちも神様の種を蒔いている。使徒パウロは産みの苦しみをしている(ガラ4:19)と言い、 乳を飲ませたとも言い(Ⅰコリ3:2)、テモテに向っては我が子であるテモテと言った(Ⅰテモ1:1~2)。結婚もしなかったパウロが女のように子を産み、乳を飲ませるというのも霊的な意味であり、また、弟子に向って我が子であると言ったのも肉的な子のことではない。神様の種によって生まれた霊的な子をいっているのである。また、ヤコブ書1章18節で、真理の御言葉によって生まれた者を初穂だといった。

時代的に証しする御言葉と実像

1. ノアの世界の証し

アダム以来、ノアの時代の選民は何を証ししてきただろうか?箱舟から出た彼らは、罪を犯すことにより死んだアダムの世界と、アダムの世界が洪水で滅ぼされる時、彼らが箱舟によって救われたことを証ししてきた(創6~8章)。

2. モーセの世界の証し

神様がアブラハムになさった預言を(創15章)成就されたモーセの世界のイスラエルは(出12章)エジプトから出てきてノアの世界、カナンを征服したことと、律法を証ししてきた(出33~34章、ヨハ1:17)。

3. 霊的イスラエルの証し

神様が旧約の預言者たちに預言なさったことは、神様がイエス様に来られて成し遂げられた(ルカ24:44、ヨハ19:30)。霊的イスラエル、すなわちイエス様の家族(弟子)が証ししたことは旧約を成し遂げた実像であった。今、世界中のすべての牧者と教徒はイエス様が旧約を成し遂げられたことを証ししている。しかし、新約で約束なさったイエス様の預言は証しできずにいる。その理由は比喩と譬えで預言なさったからである(マタ13:34~35)。比喩、譬えで預言なさったのは神様が成し遂げられる秘密を、敵の目から隠すためであった(マタ13:10~15、マコ4:10~12)。

4. 霊的新しいイスラエルの証し

天下第一の真理

神様とイエス様は真理、すなわち御言葉である(ヨハ17:17、ヨハ1:1~4、Ⅰヨハ1:1)。聖書から見た歴代の天の文化と、御言葉の実力について探ってみる。

現時代の信仰評価

今、世界中には仏教、儒教、キリスト教、イスラム教など数多い宗教がある。キリスト教の中にはカトリックとプロテスタントがある。そして、プロテスタントの中には何十という教団がある。
 
 キリスト教の各教団では各々熱心を尽くして信仰をしている。このようなキリスト教界に終わりがあるとしたら、その時に神様から認められる教団があるだろうか?それとも神様が新たに教団を創設なさるのだろうか?新しい教団を創設するとすれば、今ある教団はどこに向かうべきだろうか?神様は新約(新しい約束)で、どの国と教団が現れると預言なさったのか?新しいものが現れるならば、今ある教団は必要なくなるはずである。しかし、今の教団はそれぞれ「正統で、救われた、聖霊を受けた」と主張しているではないか?このような世の中で二千年ぶりに新天地イエス教証拠幕屋聖殿が(啓21:1、15:5)現れた。
 
 昔、我が国の文化は西洋文化とは比べものにならない程遅れていて、今日我が国に西洋文化が幅を利かせている。今の既成信仰世界の文化レベルが、昔我が国の劣っていた文化のようだとするならば、我が新天地イエス教(以後「新天地」)の天の文化は、昔優秀であった西洋文化よりも水準が高い。このように比較して説明した理由は、今の時代が、高い天の義と言葉と意味を知らずにいるためである。

霊的なぶどう酒と皮袋

イエス様が言われたぶどう酒と皮袋は何を意味しているのだろうか? 
(マタ9:17、ヨハ15:1、ルカ5:37~39、啓14:18~20、啓6:6、啓17章、18章、申32:31~33  参考) 
  
ぶどう酒はぶどうからできて、ぶどうはぶどうの木からできる。ぶどうの木には二種類があって、一つはまことのぶどうの木であり、もう一つは蛇の野ぶどうの木である(イザ5:2~4  参考)。まことのぶどうの木はイエス様であり(ヨハ15:1)、野ぶどうの木はソドム、ゴモラ、すなわち敵の国であり、淫行の都の牧者であった(創18章、19章、ユダ1:7、申32:32~33 参考)。イエス様(まことのぶどうの木)には聖霊の鳥が臨まれ(マタ13:31~32、ヨハ1:32)、敵である蛇の牧者(不品行の野ぶどうの木)には悪霊の鳥が臨んだ(ダニ4:20~22 参考)。これが二種類のぶどうの木であった。
 
 ぶどう酒とは何だろうか?ぶどうの木が人であるならば、ぶどう酒はその人から出で来る言葉である。牧者の言葉がぶどう酒であるならば、その言葉を聞いて受け入れることがぶどう酒を飲むことになる。ぶどう酒には新しいぶどう酒と古いぶどう酒がある。人々は新しいぶどう酒より古いぶどう酒の方を好む(ルカ5:37~39)。
 

霊的な畑と家と器と牛

聖書は、人の心を「畑、家、器、牛」などにたとえている(Ⅰコリ3:9、16~17、ロマ9:23~24、Ⅰコリ9:9~10参考)。畑は地であり、そこに種を蒔いて、芽吹いて、育って実を実らせることが畑の使命である。ところが、その畑に何も蒔くことができなかったり、蒔いても何も出て来なければ、その畑は無駄な畑となって、捨てるしかない。その理由は、種があっても何の益にもならず、または、蒔いても何の収穫もなく、種と努力だけを浪費するからである。霊的畑もこのようであって、霊の種を蒔いて、その種が育って木になって実を実らせてこそ、畑の使命を尽くすことになる(マタ13:1~9、18~23、ルカ8:4~15参考)。
 

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